老いは苦しく厳しいから心を合わせ幸せになる

 家庭を築くというと、ご夫婦が子供を育てるイメージが一般的です。

 しかし、年老いた親御様の在宅介護では、そのイメージとは異なります。

 高齢の親と子で力を合わせて、新たな家庭を築いていくイメージが必須です。

 しかし、その創造性が欠如しているのが現代です。

 理由は核家族化。

 両親が年老いた祖父母世代をキチンとお世話する姿を子に見せません。

 むしろ、年老いた祖父母世代を厄介者のように扱います。

 やがて、ある年齢になれば、半強制的に施設に収容して、そこで最期を迎えてもらうカルチャーが一般的になる流れができつつあるのではないでしょうか。

もくじ

臭いものには蓋をする

 面倒なこと。

 煩わしいこと。

 それをできるだけ避けるように、省力化して、楽になるようにとテクノロジーが発展してきました。

 さて、それで生活は楽になったでしょうか?

 なりませんね。

 洗濯板で洗濯していた時代から洗濯機に代わり、全自動となり、乾燥機までつきました。

 確かに、洗濯そのものの作業の苦労からは解放されましたが、その空いた時間に何をしているかと言えば、また別な仕事に取り組んで、別な苦労をします。

 もちろん、家事をせずに会社に行けば、賃金はもらえて嬉しいかもしれませんね。

 でも、その使い道と価値は、インフレによってスピード感をもって消えているはずです。

 なので、結局は楽にはならない。

 もちろん、金銭的に裕福になるかもしれませんが、所詮、金持ちという基準は相対的です。

 100万円を持っている人からすれば、1万円しかない人は貧乏人ですが、1億円持っている人からすれば、どちらも50歩100歩です。

 面倒なことから逃げ、煩わしいことを避け、臭いものに蓋をしているうちは、楽にはなれません。

介護は煩わしさしかありません

 年老いた親を在宅で介護することほど、煩わしさの塊のような厄介さを感じる仕事はありません。

 それに、AIも、ロボットも、介護作業のフォローは若干できるかもしれませんが、在宅介護そのものはできません。

 理由は簡単です。

 年老いた親御様の在宅介護は、最期への伴走です。

 AIも、ロボットも、扱える範疇の外の話が、死なのです。

 生命が、最期に向けての歩みを進めるということは、老化であり、肉体の不自由さが日々、増していく現象です。

 ですから、その現象を支えるというのは、煩わしさしかありません。

 だから、多くの人が介護を避けたがるのですが、ごく一部の人は、その煩わしさのなかに平気で飛び込みます。

 なぜなら、そのごく一部の人は、煩わしさから逃げるほど、より煩わしい人生が待っている現実を知っています。

 さらに、煩わしさに飛び込むと、そこにはまったく煩わしくない現実があることを知っています。

 なぜ、煩わしさに飛び込むと、まったく煩わしさがない現実を知るのか?

 これも、答えは簡単です。

 年老いた親御様と介護する子で力を合わせた生活が始まるからです。

 言葉は、簡単ですが、多くの人がこの中身、この本質をまったく知らないから、未だに高齢化社会を問題視するのです。

苦しいから心の力を合わせて幸せを知る

 老いと病と、いわゆる死というのは、身体に限った話です。

 多くの人が、人と接する時、その人の身体しか見ません。

 顔、目、身体、腕、足、そして仕草、言葉遣い等々。

 心をみませんね。

 せいぜい、表情をみて、喜んでいるとか、怒っているとかではないでしょうか。

 なので、癌も末期になると、非常に苦しくなるのですが、それはなぜかと理解すらできないはずです。

 なぜ、その人は、その臓器で、そのタイミングでその癌を発症したのかすら、どのドクターにも説明ができません。

 そのうえで、亡くなった原因を聞いてみても、死因は何がしかの病名はつくはずですが、寿命としか言いようがないはずです。

 癌の例を取らなくても、なぜ、呼吸をするのかという疑問を考えてみても良いでしょう。

 なぜ、呼吸するのか。

 生きるためですか?

 違います。

 呼吸を止めると苦しいからです。

 なので、人の臓器や細胞の動きは止まりません。

 これは、私も、あなたも、誰もが、どの生命であっても共通しています。

 そして、年老いた親御様の最期に向けた人生の歩みは、身体の動きが止まっていく営みです。

 なので、老いていく日々は、心に苦しさが充ちていくプロセスになります。

 心に苦しさが充ちていくプロセスへの理解が、生きるとは何かの答えにつながります。

 生きるとは苦である、と聞いたことがありますね。

 それを親と子で理解するように、と在宅介護の機会があります。

 その理解に伴い、苦が当たり前になっていきます。

 苦が当たり前に思えるようになるころには、それが当然だと理解し、苦でなくなります。

 つまり、苦がなくなるのではなく、苦でなくなる。

 これを在宅介護では、親と子で心を合わせるという、と私はそのように理解しています。

 この苦の理解なくして、親も、子も、心の理解は及ばず、当然、心を合わせるというのは無理な話になります。

 心を合わせられない先に、幸せはないでしょう。

 在宅介護は、親御様の老いを通じた苦の理解の提供なのです。

 在宅介護の機会を問題視しかできないうちは、それをチャンスとして見ることはできないでしょう。

 病を抱え、老いて、最期を迎えていくプロセスは、高齢者に限った話ではありません。

 今を生きるすべての人に共通した現象です。

 それを直視しないから、生きるとはないかがよく判らない。

 生きるとは何かも判らずに、幸せを求めるのであれば、その姿は滑稽でしかありません。

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