≪ 命 ≫を見たことがありますか?

 介護が身体介助で語られているうちは、その本質は判りません。

 在宅介護は≪  ≫のレッスンを受ける場です。

 命を見たことがありますか?

 『自分の』として捉えられる命。それは自分自身の命以外に、親子の間以上に濃いものはありません。

 だから、在宅介護は≪  ≫レッスンの場として成り立ちます。

 これは、いくら付き合い長く、親しい間柄であっても他人の間では成り立ちません。もちろん、里親や義理の親であれば、他人以上の感情は生じるので、自分の、として捉えられます。しかし、もっともナチュラルに自分の≪  ≫として捉えられるのは、実際に産み育ててくれた親子の関係より濃いものはありません。

 だからこそ、在宅介護は、その≪  ≫が潰えていくのが判っていながらも、そのプロセスを懸命に支えますから、初めて≪  ≫が見えてくるのです。

なくなるからこそ在るがわかる

 災害等で水が出ない、電気が使えない、ガスが使えないといった状況に直面して、そのありがたみがよく判ったといった話を聞くと思います。

 これは、有るのが当たり前じゃないという現実を教えてくれます。

 より具体的には、あると思っているものは、実際には次の瞬間にはありません。

 だから、無常だというのですが、難しい言葉を使う前に、これを≪命≫に置き換えてみると次のように洞察できるはずです。

 誰もが例外なく死に向って生きている。

 つまり、死が無ければ、生が成立たない。

 だから、生は、死によって支えられている。

 実は、このレッスンを徹底的に学ぶのが、在宅介護だという定義ができる人は、そう多くありません。

 というよりも、できません。

 そこまで、洞察できないのです。

 なので、在宅介護は、年老いた親の身体介護でしかなく、めんどくさい。

 その程度の認識にしか立てません。

 もったいないことです。

命を自分事として捉えられるのは自分の命と親の命と子の命

 今、この瞬間も多くの理不尽な出来事で人の命が亡くなっています。

 海外で凶弾に倒れた邦人のニュースなど頻回です。

 しかし、その邦人が他人であれば、『気の毒に・・・』と思うだけで日常に波乱は起きませんね。

 でも、その邦人が、自分の親や、自分の子だとしたら。

 もはや、冷静さは保てないはずです。

 同じ人間ですが、殺害されたのが他人の場合と、親や子の場合になぜ、ここまで反応が違ってくるのか。

 それは、愛着の有無、濃淡の違いです。

 自分事として考えよ、とはよく言われる言葉ですが、それは愛着が無くして成り立ちません。

 愛着が、親の命も、子の命も、強烈に『自分の』命として出来てしまいます。

 なので、年老いた親御様の在宅介護に真剣に取組めば取り組むほど、最期を迎えた時の喪失感は、それはもう喩えようがないほど絶望を感じるはずです。

 しかし、この絶望が大きければ大きいほど、遺された子にとってかけがえのない財産になります。

強烈な命の喪失感が存在とは何かを探求させる

 親の介護に限りませんが、愛する人の最期を迎えたとき、その喪失に伴う絶望が大きいほど、関係性を深く、濃く培ってきたのかが判ります。

 悲しみが大きいほどに、愛情深い関係があった証左です。

 これが財産です。

 そして、その喪失感が大きければ大きいほど、打ちのめされますが、それが真実を追求する力の源になるのです。

 愛着の無い、見も知らずの他人の死が、真実を探求させる原動力にはなりえません。

 しかし、年老いた親御様の介護であれば、老い、病、そして死を自分のこととして探求できます。

 その探求への行動、活動が、≪  ≫を発見させるのです。

 年老いた親御様の在宅介護に責任を持つ前は、まるっきり見えていなかったのが≪  ≫だったと判ります。

 それすらも判らずに、幸せを求めて生きてきたわけです。

 なので、餓鬼なのです。

 餓鬼が幸せを掴めるはずがないですね。

 ですから、もし、今、年老いた親御様の在宅介護をしているのであれば、これ以上ないチャンスを親御様は命をかけて子に与えている現実にも気づくはずです。

 喪失感は、打ちのめされはしますが、癒す対象にはなりません。

 くだらないスピリチャルの洗脳には気をつけましょう。

 喪失感は、相手への愛情の深さだと認める対象だと理解できた時、真実を追求する大切な原動力だと判ります。

 この記事を書いているのが、2024年の年末です。

 いま、以前と比べて日本の治安が劣悪化しています。これからの治安劣悪化時代を迎えるにあたって、介護サービスの在り方も大きく変わっていくと予想しています。

 これまでのように、性善説に立ち、日本では当然として考えられてきた相互扶助が成立たなくなるのではないか、と危惧しているからです。

 逆に言えば、在宅介護をキチンとそつなくできることがどの家庭にも求められるカルチャーになりますが、これは第二次世界大戦以前では当たり前のカルチャーでした。

 難しいことはありません。捨ててしまった大切なカルチャーを取り戻す時代を迎えている、私はそのように考えています。

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