前々の記事で紹介した近所の高齢の男性が施設に入居したこともあり、岳母も親子の関係について改めて考えるところがあったようです。
岳母の身に迫っている問題ということもあり、介護の話題は尽きません。
というのも、岳母の気持ちが常に持ち合わせているのは、親として、子供にやってあげられることはやってやりたい。そんな気持ちを打ち明けてくれます。優しくもあり、当たり前のように思われるかもしれません。
しかし、その気持ちは、やがて束縛となり、お互いを奴隷化します。
親は役割を終える
高齢になっても、親御様の振る舞いを観察していると、いつまでも親をやっていたい気持ちが溢れるのが判ります。
血のつながりのない私に対しても、実の子のように接してくれるので、その優しさがよく判ります。
例えば、私が少し疲れたので、フロアに横にならせてもらっていたら、枕がスッと出てきます。
私も、思わず笑ってしまいました。
『やっぱり、親なんだなぁ・・・。』
しばらくして私が起きると、岳母はお茶を煎れてくれます。
私がテーブルに着くと、施設に入った高齢男性の一件から介護の話になりました。親としては、やるせない気持ちであろうとおっしゃる岳母に、私は答えます。
親というのは、役割なんですよ。
岳母は、耳を傾けてくれています。
もちろん、親子の関係というのは、どちらかが寿命を迎えるまで続きます。今世の一度限りの縁です。生きているうちは切れません。
なので、関係性は死ぬまで続きますが、役割は自分で終わらせなくてはいけません。
特に女性は、それが出来ない人が多い。
なぜなら、子供を産めるからです。
母親の優しさは海より深いと言われますが、その優しさが無ければ子供を産み、育てることは不可能です。
男性には、遠く及ばなない強さと優しさが女性にはあります。
しかし、それゆえに親の役割を自分で終えるのは難しいものがあります。
本来持ち合わせている海より深い強さと優しさを発揮するな、と言われているようなものですからね。
どこか生きがいをなくしたように感じるはずです。
でも、それをとことん理解して、親の役割を終えると決めてください。
なかなかできるものじゃないかもしれません。私の実の母親も、そこで大失敗していますから。
だからこそ、在宅介護は、親にとっても、子にとっても、頑張る価値のある取り組みなんです。
愛着を手放せた時、親の役割は終わります
高齢になっても親は、子供のためによかれと思って、やってあげたくなる気持ちで行動されます。
特に、女性の親御様は、その傾向が強いのかもしれません。
しかし、その気持ちは生きるプロセスのためだけに必要な機能。
愛と勘違いしている、単なる愛着です。
親御様ご自身が高齢となり、介護が必要になってきたら、その機能を捨てなければいけないタイミングです。
なぜなら、少しショックに聞こえたら申し訳ありませんが、真実を無視するわけにはいかないのでズバリと申し上げます。
在宅介護は、当然、今日と明日を生きるのですが、明日のない今日を迎えていくプロセスの連続です。
最期は、日々、隣り合わせ。
しかし、そのプロセスは悲しみがつきまとう時間ではありません。
次の記事に簡単に触れましたが、今日が最期だと心の底から理解できれば、心を向上させていける貴重かつ、実践的な現場があるとみえてきます。
子を育てるために必要なファンクションとして愛着があるのも、その感情をフルにドライブしないと子が成長できないためです。
ですから、子が小さい時に、親の愛着は必要です。
しかし、愛着の素顔は、苦しみです。
その正体を知っていれば、愛着を手放す行動は必須です。
もし、手放せないとどうなるか。
親だけが一方的に愛着を持つというのは、成り立ちません。
子もまた、自立できないまま、それに甘えます。
野生の動物の世界では、死を意味します。
人間の世界で、愛着まみれの親子関係、つまり親離れ、子離れができないまま、在宅介護が始まると、結果はどうなるか。
在宅介護で報じられるさまざまな悲劇的なニュースに、その答えが出ています。
愛着を手放す。=役割を終える。
親子じゃなくなるというのではありません。愛着を手放していきます。
その関係性の愛着の有無をチェックする簡単な方法があります。
「うちの子」、「うちの親」。
普段、この言葉を使っていて、違和感がないのであれば、そこにまだまだ愛着があります。