認知症に罹患すると、世間はその人を≪ 認知症を患った人 ≫とみなします。
ハッキリと申し上げましょう。
これ、≪ その人じゃない ≫、と言われているのと同じです。
認知症と言われる本人がどれだけ辛いか。
想像できますか?
認知症に限りません。
地球には病気で差別をする歴史があるのです。
ご注意
このウエブサイトで取り扱う認知症について
あくまでも、私の在宅介護経験による観察、知見、そして介護実践での話であり、科学的、医学的な学術的アプローチにまで昇華できず、証拠、エビデンスがあるわけでありません。そのため、日本のある家庭で行われた介護の状況として、私の主観に基づいて解説が加えられた認知症に対する日々の介護アプローチとして捉えていただき、この情報をもって、認知症が治るだとか、認知症の介護が楽になるといった利益は決してもたらされないことをご理解の上、このウエブサイトの情報をご活用ください。
何が出来て、何が判らないのかを切り分ける
認知症を患ったと聞くと、その人のことを認知症を患った人としてみなします。
何を言っても忘れてしまう人のようなみなし方をします。
ちょっと、ひどいですねよね。
でも、これが今の現実です。
本来であれば、認知症を患った人ととして接するのではなく、認知症を患ったので、どこまでが出来て、どこからがよくわからないのかを理解するように接しないといけません。
例えば、五十肩(肩関節周囲炎)を患ったとします。
どこまで腕が上がって、どこから腕が上がらなくなるのか。
腕が上がる範囲で、仕事をするなり、世間との関わり合いを持てばよいだけの話ですね。
認知症も同じです。
出来るところ、判るところと、そうでないところの線引きをして、判るところはこれまで通りのコミュニケーション、そうでないところはその人にマッチしたケアをしていけばよいというだけの話なのです。
ところが、世間はそうではないのです。
認知症に罹患したら、もうこの人は何も理解しない、何も判らない、といった烙印を押した付き合いをしてきます。
あなたも糞を腸に詰めながら歩いてますよね?
年老いた親御様の排泄介助は、汚いと思いますか?
もし、そうだとしたらなぜですか?
先日、認知症を抱える親御様の排泄介助をする娘さんの様子をテレビで放送していました。
排泄介助をするといっても、トイレの外で待っているだけです。
これでは、何も判りません。
- 排泄行為は、問題なくできているか。
- 便秘、下痢、といった症状はどうか。
- 便の臭いはどうか。
- キチンと後始末が出来ているのかどうか。
排泄介助を通じて、健康をチェックするのも在宅介護では重要(この重要性についても後々の記事で取り扱います)です。
また、介護施設のスタッフの方々に対しても、ここまで細かく看るように期待するのは無理があります。
ですから、排泄介助は、年老いた親御様の健康管理の一環という視点に立たない限り、いつまでたっても汚物処理の域を出ないのです。
このレベルでは、あなたの排泄もまた、単なる汚物処理であり、それが差別の始まりです。
排泄を決して、健康管理のバロメーターとして使いこなせるまでには至らないでしょう。
介護をしたくないのは差別です
誰もが年老いて誰かの手を借りないといけない年齢を迎えていきます。
少なくとも、年老いた親御様の実子でありながら、介護をしたくないという気持ちがあるならば、それは差別です。
親御様を煩わしい対象と見ているのであればもちろん、未来の自分もまたその対象です。
冒頭に、認知症に罹患すると、世間はその人を≪ 認知症を患った人 ≫とみなす、とお伝えしました。
ドクター、看護師、介護職員、地域社会・・・、皆が自分の親を要介護の人とみなします。
ケアする以上、その見方も必要です。
しかし、親御様が認知症を患ったとしても、その人を認知症を患った人として見るのではなく、父親、母親として見ることができるのは、唯一にして実の子の立場である人しかいないのです。
もし、あなたが認知症を患って、世界中があなたのことを認知症を患った人としか見なくなったらどのような気持ちがしますか?
認知症に限りません。
年老いた親御様がいかなる病に罹患しようとも、その親御様は、病を患った人である前に、あなたのとって大切な父親であり、母親なのです。
年老いた親御様の子であって、在宅介護を担うのであれば、親御様のことは、認知症をはじめ病を罹患した人として見ないでください。それは、ドクターや、介護に関わる他人がする見方であり、在宅介護の責任を担うあなたは、尊敬すべき父親、母親として接する姿勢を崩してはいけません。
すみません。
排泄介助について心と気づきの観点から記事を投稿する予定が後ろ倒しになっています。
先に投稿しておかないといけない内容も、あとから気づくので致し方のないところがありますが、お許しください。
というのも、世界の差別の歴史をほんの少しでも調べてみてください。
誰かが誰かを忌むべき存在として見るところから、差別は始まっています。
誰でも、変わりなく、例外なく、腸に糞を携えながらカッコつけたり、化粧しています。
この滑稽さが判れば、差別など生じません。
ましてや、親御様の排泄介助など、どうという問題は存在しません。あるとすれば、介護する子が排泄を汚いとしか見れないところに問題があります。
この精神レベルを超えたところに、在宅介護の排泄介助はあります。