現代の高齢化社会で、年老いた親御様を介護するうえでもっとも警戒すべき病のひとつは認知症でしょう。
親御様が認知症を患うと、介護する子の負担は指数関数的に増加します。まず、目を離せなくなります。介護離職も余儀なくされるので、やむを得ず施設に入所してもらう選択しなければならない状況もあるでしょう。
逆に言えば、年老いた親御様が認知症さえ罹患しなければ、実は年老いた親御様の在宅介護は、そう負担にはなりません。むしろ、豊かな時間を過ごせる機会です。
私は、アルツハイマー型認知症を患った実母の介護経験から、認知症を24/7で観察し、実母とのコミュニケーションを通じて、さまざまな認知症の知見を得ました。
その上で、認知症は治りませんが、認知症症状を表面化させないためにはどうすればよいのか。そのノウハウを自分なりに獲得しました。
そして、三度目の介護となる岳母との生活では、認知症を遠ざけ、介護を必要としない介護の実践を試み、実際に実母が亡くなる前の2週間程度のみ、訪問医療と訪問看護のサービスを受けた介護スタイルを構築しました。
認知症への私の介護実践、介護取組について、記事を紹介していきます。
ご注意
このウエブサイトで取り扱う認知症について
あくまでも、私の在宅介護経験による観察、知見、そして介護実践での話であり、科学的、医学的な学術的アプローチにまで昇華できず、証拠、エビデンスがあるわけでありません。そのため、日本のある家庭で行われた介護の状況として、私の主観に基づいて解説が加えられた認知症に対する日々の介護アプローチとして捉えていただき、この情報をもって、認知症が治るだとか、認知症の介護が楽になるといった利益は決してもたらされないことをご理解の上、このウエブサイトの情報をご活用ください。
なぜ心を学ばないといけないのか
おそらく判っていない人も少なくないでしょう。
認知症は、脳に問題が生じる病で、心が病になるわけではありません。
ですから、認知症を患った人と接するとき、最も注意深く接しなければいけないのは、この認識の有無です。
この認識が欠けていると、認知症を患ったご高齢の人と接する時、≪ 認知症を患った人 ≫として接します。
しかし、心が認知症になるわけないというのが判っている人は、そのような接し方を決してしません。
例えば、あなたが認知症を患った親御様の子供の立場であれば、たとえ親御様が認知症を患ったとしても、年老いたとしても、どこまでいって、父のままであり、母のままなのです。
ですから、≪ 決して認知症の人として接しない。 これまでと変わらず父、母として尊敬の念をもって接する。 ≫
この心のありようが、ものすごく大切なのです。
認知症は、その人が患ったある一つの疾患です。
歯が欠損している、目が遠くなる、その類です。
歯が欠損している人と接して、≪ 歯が欠損している人 ≫とは決して接しないですよね!?
でも、認知症を患ったと聞くと、その人のことを≪ 認知症を患った人 ≫として接してしまうのが大多数です。
これを、≪ 差別 ≫というのです。
差別の根底には、自分はそうはなりたくないという怒りの一種が心に渦巻いています。
差別は、肉体的な違いを指して、優劣をつける最も卑劣な行為の一つです。
決して、許されません。
一方で、心のアーキテクチャは、人間であれ、動物であれ、生命であれば共通です。
だから、生命は平等です。
ご存じでしょうか。
だから、人間同士であれ、相手が虫であれ、生命を殺してはいけないという道徳を理解できるのです。
これは、心とは何かを学び始めれば、その理解が深まっていきます。
結果として、認知症というのもまた、その人が抱える単なる疾患の一つであって、年老いた親御様が認知症に罹患したとしても、父でなくなる、母でなくなる、といった現実に決してなりえません。
心の学習は、まず、以下の書籍から学び始めるのをお勧めします。
差別環境で、認知症が改善すると思いますか?
差別をするのは、肉体的な違いしか視界に入らない愚かさから始まります。
心を学ぶと、そのアーキテクチャが生命に共通していることから平等を理解します。
認知症を患ったとしても、それは肉体に限った話であり、心は認知症を患っていない人と何ら変わりはありません。
この平等に対する観察眼をどこまでもブラッシュアップするのが、認知症への向き合い方の最初の最初です。
他にも、病気を原因にして、さまざまな差別が行われてきた歴史が日本にあります。
今、もし、年老いた親御様が認知症を患っているとしたら、介護する子供は大きなチャンスです。
≪ 絶対に差別をしない ≫
この心をモノにする絶好の機会を迎えている、そう捉えるべきなのです。
認知症を患った実母の在宅介護では、この差別感を無しにして接していくことで、認知症症状を表面化させない取組をスタートさせました。
認知症の接し方をほとんどの人は知らない
もし、あなたの両親や大切な配偶者が認知症を患ったと判った時、どうしますか?
おそらく、うろたえるでしょうね。
でも、患った人の方が、もっと恐怖を感じています。
だからこそ、大切な人が認知症を患ったら、最も身近な人は、次の言葉を携えている必要があるのです。
≪ 認知症?、それがどうかしましたか? 大丈夫。 ≫
この言葉をハッキリと、確信をもって言えるのは、心を学んでいる人だけです。
なぜなら、心は認知症に罹患せず、その人のまま。その人のままが当然のこととして、今後ともコミュニケーションが続くからです。
心とは、命です。
心を通わせるのが、本当のあるべきコミュニケーションです。
これが判っていれば、認知症など恐れるに足らず、なのです。
なぜなら、心が認知症になるわけではないのですから。
在宅介護を始めるにあたり、次のステップの重要性を伝えています。
1.愛着を手放し、親離れ、子離れを完了する。
2.有終の美を飾る。そのためには身体への愛着も手放し、死を直視する。
3.直視した死と、今ある生との差分により「心」は浮かび上がり詳らかになる事実を確認する。
4.「心」とは、何かを観察できるようになる。
5.心へのフォーカスと、親子の間で心を通わせるコミュニケーションができる関係をつくる。
認知症は恐れるに足りませんが、それでも罹患しないに越したことはありません。そのためには、認知症を遠ざける心を学ぶ必要があるのです。それが、実は、この5つのステップなのです。
心が逞しければ、病がなんであれ、コミュニケーションは可能です。なぜなら、心は決して朽ちません。
一方で、肉体は朽ちていくモノです。認知症もまた、その朽ちていくプロセスの一つの現象に過ぎません。