≪ 命 ≫が人生を創造する。
これが理解できれば、命を鍛えると人生はより良くなると想像できます。
実際に、その通りです。
世の中で、よく因果応報という言葉を聞きませんか?
原因は命が作り、結果を命が受け止めます。
ところが、よい原因をつくれば、よい結果が返ってくるこの自然の法則を上手に使える人はあまり見かけません。
もし、そのような人ばかりの世の中になれば、いじめや戦争は無くなりますからね。
平和とは希求するだけでは難しいのも、それが、今、命がよい原因を作らなければ成り立たない結果だからです。
命を鍛えるとは、良い結果づくりを上手にできるようにするプラクティスです。
命を詳らかに
前回の記事で、亡くなった岳父の遺体と生きている私達と比較して、命を発見した岳母と私。
人生の創造主は、≪ 命 ≫であると理解します。
その命を鍛えれば、より良い人生となるわけですから、鍛えない手はありません。
では、どう鍛えればよいのか?
そのためには、まず≪ 命 ≫とは何かを詳らかにする必要があります。
命とは反応機能のかたまり
岳母と一緒に、荼毘に付される前の亡くなった岳父の遺体に面会に何度も足を運んだ当時を思い出してもらいました。
お母さん、亡くなったお父さんに話しかけましたよね。
返事をしてくれましたか?
するわけないじゃない。
ですよね。手を触れてみて、お父さんは笑顔になりましたか?
まさか。しないわよ。
ですよね。他に遺体となってしまったお父さんは何かしてくれましたか?
まったく動かないんだから、するわけないじゃない。
そうなんです。これが≪ 命 ≫なんです。
・・・・・。
お父さんも生きていれば、『お父さん』と呼びかければ、『なんだい?』と答えてくれたと思います。
また、優しく頬に手を添えれば、穏やかに微笑まれたはずです。
つまり、これらのお父さんのアクションは、すべて≪ 反応 ≫だと判ります。
おそらく、生前のお父さんであれば、少しほっぺたを引っ張れば、ちょっと怒られるかもしれませんね。
ただ、そのちょっとした怒りもまた≪ 反応 ≫です。
このように観察できるようになると、私たちも常に見るもの、聞くもの、嗅ぐもの、味わうもの、触れるものに、さまざまな≪ 反応 ≫をみせてきました。
そして過去を思い出したり、未来を想像しては怒ってみたり、不安に思ったりと、心の中だけでもさまざまな≪ 反応 ≫に苛まれ、さらに疲れてみたり、喜んでみたりしてきたはずです。
確かにそうね・・・。
これが判れば、≪ 命 ≫とは、≪ 反応 ≫であるというのが結論なんです。
この≪ 反応 ≫が、さまざまであり、怒り、嫉妬、憎しみ、欲、思いやり、慈しみ、それこそたくさんの≪ 反応 ≫をこれまでの人生というより、この瞬間、瞬間でさえも目まぐるしく変わりながら、生きてきたわけです。
言ってみれば、この≪ 反応 ≫の変化の流れが人生そのものですし、さまざまな≪ 反応 ≫という機能のかたまりが≪ 命 ≫そのものです。
他にも、生きたいという気持ちがあるから、それに応じて、例えば心臓を動かすという≪ 反応 ≫があり、生きたいという気持ちを阻害されようとすれば、烈火のごとく怒るという≪ 反応 ≫が生じるわけです。
なるほどねぇ。
命を鍛えるとは?
≪ 命 ≫とは、≪ 反応 ≫である。
これが判ったところで、どのように命を鍛えればよいのか?
結論から言うと、抑えるプラクティスと育てるプラクティスをやっていきます。
プラクティスという言葉が判りにくければ、トレーニングでもかまいません。
日常生活の意識の中で習慣化する行為を確立します。
そのため、決して外観からは判りません。
では、具体的にどうプラクティスすればよいのか。
まず、抑えるプラクティスですが、これは命の機能で、オートマティック的な≪ 反応 ≫を抑える訓練です。
一方で、育てるプラクティスは、命の機能で、育てないと反応しないものを≪ 反応 ≫するように育てる訓練です。
さて、ここから先は、長くなってしまうので、次の記事に譲ります。
ただ、ここで、皆さんにぜひ、オススメしたい書籍があります。
実は、この≪ 命 ≫の話をしている時に、岳母にも薦めた書籍です。
80歳代後半の岳母も熱心に読んでくださった、そんな一冊です。
もしよろしければ、手に取っていただければ、この記事以上に目から鱗なのは間違いありません。
岳母と一緒に過ごしていて思ったのは、私の話に熱心に耳を傾けてくださり、なおかつお伝えしたことを実践してくれたのがとても有難く感じていました。
岳母はまじめで、とても勉強熱心だったことも功を奏していました。
多くの人にとって、ご高齢になった親御様の介護は、身体介護を主に想像されると思います。
でも、現実には違うという雰囲気が私の記事から想像できるはずです。
本当の在宅介護とは、親と子で協力して家庭を築いていく営みです。
これが全くといっていいほど、日本には浸透していないのが現実です。
当然ですが、この営みは、親離れ、子離れが完了した上に成り立ちます。