介護保険制度は家族であれば誰でも申請できてしまうのが大問題です。
家族の中に悪意のある人間がいないとでも思っているのでしょうか?
でも、いるんですよ、それが。それが判らないから親バカといわれるのです。親は子供を信じてやるのが仕事かもしれませんが、それは子供が18歳まで。そこから先は、子の成長はせいぜい宇宙の果てから遠く見守るだけに留めなくてはいけません。
ところが、です。
やれ、孫が生まれればちょっかいを出し、カネを渡し、出産祝いをあげるわ、ランドセルを買い与え、自転車を買ってやり、お年玉をあげるわ、入学祝をあげるわ、卒業祝をあげるわ、七五三でお祝いをあげるわ、節句にお祝いをあげるわ、合格祝いをあげるわ、就職祝いをあげるわ、孫の結婚までお祝いをあげるわ、挙句の果てには二世帯住宅を建てるわ、孫には生前贈与までするわ・・・。
あのね、そんなことしていて、子や孫から尊敬されるとでも思いますか?
感謝されると思いますか?
もし、子や孫に対して、親がそんなことをしていて尊敬やら、感謝やらされるなら、家族全員で一丸となって最高の在宅介護をやってくれているはずです。
でも、世の中を見渡してみてどうですか?
現実が見えませんか?
人間だけが子育てを最高に失敗する
『うちの子が、親の私に暴力、暴言なんて振るうわけがない。そんな親は育て方が悪いだけ。馬鹿なのよ。』
高齢者の一歩か、二歩手前のご年齢にある親御様の心の声です。
そんな親御様の5年後、10年後が実に楽しみです。
『なぜ、私が子供からこんな言われ方をしなくちゃいけないんだ・・・』
いよいよ高齢者となって、このように思う状況下におかれる時、すでにその親御様の体力、気力、そして経済力はバツグンに落ちています。
そんな状態の高齢者を誰かが積極的に救ってくれると思いますか?
このような状態の陥る原因は、ご自分の子育てが間違っていないという最高のマヌケさから生じます。
ただ、もし救いになるのだとすれば、多くの人間の子育ては、似たり寄ったりで最高に失敗します。
そうでなければ、戦争や競争などをベースにした社会は生まれません。
戦争や競争は、自分さけ良ければ良い、それは自分が正しいのだからという本能による衝動とその活動結果です。
生きるとは、他者を殺すこと。
その他者とは、親をも含むのです。
どの生命にも共通して、本能には、年老いた親を介護するプログラムは含まれていないのです。
違うというのであれば、アフリカ大陸のサバンナや、南米アマゾンを観察してみたらどうですか?
動物たちがやっていることは、弱肉強食、殺し合いで、年老いた親のことなど見向きもしません。
そして、人間社会も同じです。
例えば、日本も、世界も、競争の象徴ともいえる学歴は有効なツールです。
もちろん、仕事ができるかできなかという観点では、学歴なんかは必要ありません。
しかし、人々を騙し、扇動し、自分さえよければ良いという最高の我儘を実現するには、学歴は最高に便利なツールです。
そして、最高の我儘を実現するツールに権力があります。
どこぞの人間は、首長になるために、厚顔無恥で学歴を偽りますが、あの立ち振る舞いをみれば明らかでしょう。
このような人間社会でも、『うちの子』だけは、清廉潔白に志高く、親が年老いたら介護をしてやらなくちゃ!と思ってくれている、とでもお考えなら頭のネジを1万本ぐらい締め直した方が賢明です。
年老いた親の介護なんて面倒でまっぴらごめん。
これが本能でしか生きていない人間の本性であり、あなたが全力で育てた子の素顔なのです。
相手が親であれ弱い相手だから悪事を仕掛けます
前の記事で介護保険申請の悪用について、その具体例を挙げました。
この悪事の目的は、年老いた親御様の生活の申請者(キーパーソン)による支配です。
基本的に介護保険申請がなされると、できるだけその申請を滞りなくパスさせようとドクターや行政は支援します。
年老いた親御様の生活を支配してやろうと悪意をもって申請されたなどと、第三者には決して判りません。
悪意ある人間は、このメカニズムを悪用します。
親御様の生活を支配できれば、金銭の持ち出し、食事の不提供といった嫌がらせはいくらでも都合の良い理由をつけて出来てしまいます。
これは、犯罪行為ですが、悪意の立証は難しいです。
特に、親族内、家族内なので、悪意ある者はいくらでも言い訳が出来てしまうのです。
もちろん、私と母の在宅介護では、悪意ある親族のやった行為はすべて記録、証拠は押さえています。
なので、いつでも係争し、裁判も喜んで戦います。
でも、このような行為は、多くの修羅場を経験し、慣れていないとできないものです。
ですから、一般の御家庭で、親御様の立場であれば、育てた子は可愛いでしょうが、別人格の他人として付き合わないといけません。
そのうえで、誰を自分の介護者として相応しくないのかを見定めておかなければいけません。
ポイントは、誰が相応しいかではなく、誰が≪ 相応しくないのか ≫なのです。
介護に相応しくない人間は本能でしか生きていない
親御様にとって相応しい介護者を見定めることはできません。
なぜなら、自分の「期待」を相手に込めてしまうのです。
期待で人を見る時、相手の本性は見えなくなります。
これまでの人間関係を振返ってみてください。
失敗した人間関係のすべてに共通して、あなたの相手に対する期待がてんこ盛りだったはずです。
介護者の見定めは、その期待が更に込められてしまうので、間違いに気がついたときには手遅れです。
例えば、二世代住宅に住まわせてやったあなたの子や孫は、社会で自立できていますか?
逆方向からお聞きしましょう。
なんでも買い与え、学費まで出してやり、挙句の果てに家まで提供してやった子や孫は、社会一般の常識的な視点からみて、自立した人間として立派な大人の振る舞いをするのか、否か?
この設問に答えてみてください。
自立の定義は、社会で理性的に生きているのか、それとも、本能的にしか生きられないのかが分水嶺です。
これが判らなければ、政治家連中の生きている様子を観察してみてください。
他を利する生き方をしなければいけないのが本来の政治家のあるべき姿です。
でも、自分ことしか考えられない姿を世の中にさらけ出していますね。
理性的に生きるのか、それとも本能の衝動でしか生きられないのか。
政治家のマヌケさを見定める目で、自分の子供を見てください。
本能の衝動でしか生きられない人間に、理性を教えても無駄です。
聞く力などゼロなのに、自分には聞く力があるなどと恥ずかしげもなく言葉にして総理大臣になる人間が現実に日本の歴史上に居るのです。
どこぞ優秀な高校、大学を卒業しようとも、こんな人間に理性など理解できるわけがありません。
それと同じことです。
だから、本能の衝動でしか生きられない馬鹿は、年老いた親御様の介護ができないばかりか、悪意を持って虐待するのです。
たとえ我が子であれ、本能の衝動でしか生きていない人間に、自分の親御様でさえ、その介護はムリなのです。
この原理原則を頭に叩き込んで、自分の介護に相応しくない人間をマークしてみてください。
目が覚めるはずです。
悪意や悪事の対象は、強い相手に向けられると思っていませんか?そんなわけないですよね。よくご存じのはずです。弱い相手こそ、悪意や悪事の対象です。
しかし、自分自身が体力的にも経済的にも弱くなっていくのが老いなのに、貴方の家族は皆、ものすごく心配してくれて、喜んで介護してくれると思い込んでいるのです。
もう一度書きますが、悪意や悪事は、弱い対象に向けられるのです。
そして、裏切りは、もっとも身近で大切に思っていた人が起こすのです。
この原理原則が、自分の老後には当てはまらないという最高に間抜けな勘違いが、老後の苦しみを爆発的に増加させます。
さて、悪意を持って申請された介護保険申請をどのようにして覆していったのか。気になりますよね。次の記事では私と母が、その悪意をどのように覆していったのかを投稿します。