命に別状なく、重大な疾患なく退院できた母は、当時の生活環境にケジメをつけて私との生活を希望します。
どのご家庭でも同じですが、親子の関係でも良い時期があったり、悪い時期があるものです。
母と私の関係でも振り返ればいろいろありました。
しかし、助けを求められれば、二つ返事でオッケーします。
一方で、母がこの決断をされて困るのが、それまで同居していた親族です。
この退院から母との私の在宅介護生活が始まるまでの期間、彼らから受けてきた虐待が実に卑劣でした。
その一部をご紹介しましょう。
高齢者は社会の厄介者
政治も、地域社会も、建前は老後の安心・安全を全面的に打ち出します。
しかし、現実は異なります。
誰も高齢者のことをいつまでも元気で健やかになんて思っていません。
ご家族や、地域の皆さんは、本気で貴方や貴方の親御様の心配をしてくれていますか?
建前はそのように見える態度も、本音は違います。
報じられる社会のメッセージを冷静に分析してみてください。
高齢化社会は問題だというのです。
働き盛りの年代が介護離職すると何兆円の損失だというのです。
そのため、高齢になり介護が必要になったら施設に預けろというのが暗黙のメッセージです。
介護休業制度は、現在の制度では90日ありますが、その建付けは、家庭で介護の方針を決めるための休暇です。
90日で出来ることと言えば限られるので、とどのつまり、高齢者は施設に預けろ、というのが介護休業制度の真の顔です。
認知症の在宅介護なんて、数年を要しますから。
虐待する者はあらゆる手段を使う
基本的に高齢者は社会にとって厄介者ですから、人権は無視されます。
きつい言葉かもしれませんが、こう書くしかありません。
というのも、虐待する者は社会のこの風潮を活用します。
介護保険制度がありますね。
その制度を利用するにあたり、役所に行くと申請用紙を渡してくれます。
その申請用紙は、年老いた親御様の家族、近い親族であれば誰でも申請できてしまうのです。
建前は、年老いた親御様の意思確認をうたいますが、その確認など誰もしません。
ですから、親の了承なく、子が勝手に申請できてしまうのが介護保険制度です。
その申請が善意であれば、非常に利便性の高い申請プロセスです。
しかし、その申請が悪意であれば、最悪です。
年老いた親御様を主として介護するのが悪意ある親族なのに、行政からみたら彼らがキーパーソンになるのです。
これは、本当に怖いですよ。
介護保険申請には、かかりつけ医の診断もあるので、そう簡単にはいかないなどと思うかもしれません。
また、要介護認定のため、認定員のチェックもあるから、そんなことは無理だと思うかもしれません。
甘いですね。
詳しくは書きませんが、この程度のことは、悪意ある者にとってハードルにもなりません。
そして、晴れて介護保険申請が認められれば、年老いた親を虐待する人物が、その親を介護するキーパーソンとして行政からみなされる状態になってしまうのです。
本当は、介護を必要とする親御様の意志が最も尊重されないといけないはずですが、行政はノータッチにせざるを得ないのが現状なのです。
親は物忘れが酷くなってきている、そう家族から言われれば、行政の担当者は頷くしかありません。
やりたいようにやれる
行政からみれば、悪意があろうとなかろうと、申請がパスしたのであれば申請したキーパーソンによる意向に沿わないわけにはいきません。
新しく担当してもらうケアマネージャーに対しても、悪意ある親族は、まことしやかに嘘を並べます。
例えば、母が家の鍵を見当たらないといって家中を探したとしますね。
悪意ある親族は、それを認知症になりつつある事例として、かかりつけ医やケアマネに報告します。
当たり前かと思うかもしれませんね。
でも、その鍵は、悪意ある親族が隠したのです。
なぜ、隠したのが判ったのか、これも不思議に思われるかもしれませんね。
年老いた親の認知症症状のでっち上げが周知されたところで、隠していた鍵を出してくるのです。
お母さん、まったく、こんなところに鍵を置きっぱなしにして(怒)!
これで、親御様はボケてなんかいないのに、立派な認知症患者予備軍にでっち上げられます。
自分の子は決して悪いことなんかしない!
子に対する執着でそんな風にしか子を見ていなかった親にとっては、悲しみつつ、どうにもできず、周囲にすら訴えることすらできない、耐え難い苦しみでしょうね。
子離れすらできない情けない親は、こうして子に虐待されたまま、心に苦しさを抱えて最期を迎えてしまいます。
ですから、子離れができていないのであれば、いますぐにでも取り組んでほしいのです。
私が介護させてもらった3人の親は、多かれ少なかれ虐待の状況を救い出し、穏やかな最期を迎えてもらっています。
比較するものでもないのですが、もっとも卑劣な虐待を受けていたのは、実母ですね。
逆に、この経験が母にとっても、私にとっても、心の成長につながったのは間違いありません。
実母が最期を迎える晩年に、私以外の子や親族に会いたいかと尋ねたことがあります。
その時の実母の答えは明快でした。
≪まったく思い出すこともなかったわ。会いたいとも思わないし、会いたいというのであれば、挨拶しにこなければいけないのは彼らの方でしょ。私が死んでから、めそめそと会いに来て何の意味があるのか。≫
さすが、我が母ながらに勉強させてもらいました。
この程度の精神的な強さはすべての高齢者の皆さんに兼ね備えていただきたいですね。