在宅介護は親が最期を迎えて終わります。
身もふたもない書き方で申し訳ないですが、これが現実です。この最期に及んで親御様が達すべき目標が判らないようであれば、どんな資格をお持ちであれ、その介護従事者はプロフェッショナルではありません。
介護のゴールは親御様の最期なのです。
この時、ケアプランで設定する目標に何を書くのでしょうか?
最期を知らずに目標などかけるはずもありません。
とはいえ、これも現実ですが、おそらくは多くの介護従事者が≪ 死とは何か? ≫を知らないのですから、掲げる目標など、おざなりでしかありません。
ですから、私から言わせれば、ゴールも知らないのにプロを語る介護従事者いないでしょう。
最期を考えるなど難しいという意見もあるでしょうから、もう一歩、譲って、認知症を患った人の介護を考えてみてください。
現在の介護従事者は、私に言わせると、その多くが認知症を患った人の≪ あしらい方 ≫が上手なだけで、認知症は治らないことを突き止めようとした人など介護施設等にいらっしゃるとは思えません。
認知症が治らないという現実は、それこそ全ての力を使い切って、認知症をどうにかして治そうと努力した人間だけが、治癒しない壁に跳ね返されて、口にできるのです。
私の介護は認知症ケアではなく認知症からの快方と解放が目標でした
現在の認知症を患った人へのケアの基本姿勢は、認知症を患った高齢者が露呈した認知症症状へのあしらい方にしか、私には思えません。
当ウエブサイトを読んでくださっている方は、おそらくは認知症に何らかの形で関わる人でしょうから、そんなあなた様にお聞きします。
年老いた親御様が認知症になったとして、なぜ、その病を救ってあげようとしないのですか?
医者が治らないと言ったからですか?
その医者は、どうして治らないと判断しているのですか?
治らないと断言できるまで、どのようなアプローチでそれをとことん探求して結論づけたのですか?
あなたが聞いた、認知症は治らないという情報は、本当ですか?
どのように確かめたのですか?
そして、なぜ、認知症を患ったぐらいで、大事な親御様を、どこかの誰か他人に上手くあしらってもらうことが、目標になるでしょうか?
もし、本当に親御様への返しきれない恩を返したいと思うのならば、まず、認知症から救ってあげたい、この衝動が、ケアプランの第一の目標になるはずです。
私の場合、認知症を患った実母の介護は、まず、どうにかして、実母を認知症からの快方と解放をしてやることが目標になりました。
世の中で、認知症は治らない、そう言われていたとしてもです。
ひょっとして治るのでは?
認知症を患った実母と一緒に暮らし始めて、まず最初の1か月間をかけて実母の認知症症状を観察しました。
つぎに主治医に相談して、認知症の確定診断をもらいました。
この頃になると、実母と私、そして家内の3人の家庭が立ち上がり、介護サービスの提供をどうするかの検討に入っていきました。
同時に、不思議だな、と思う現象が実母の症状に現れます。
最初の1か月間をかけた認知症症状の観察より、それ以前から認知症症状を露呈していた実母ですが、当時は入浴の拒絶や、とても実母とは思えない怒りっぽい感情を前面に出していました。
1か月間の観察でも、ありとあらゆる認知症症状を露呈してはいましたが、しかしながら、徐々に柔和でありながら、凛とした実母のいつもの姿勢がみられる日が増えていきました。
日付の感覚や、季節感を答えるのは難しいままですが、テレビでニュース番組を一緒に見ても、昔のように議論が出来たりしました。
また、この頃に実母にiPhnoe の Siriを教えると次のようなトライがありました。
この出来事をきっかけに、私は、実母を認知症患者として接するのをやめています。
その代わり、これまで通りに大切な唯一の存在としての母親として敬うように接するようにしました。
日常会話は、普通の親子の会話ですが、朝起きた時は、必ず≪ おはようございます。気分はどうですか? ≫と特別に構えているつもりはないですが、敬う気持ちをナチュラルに言葉に乗せていました。
実は後々に判ってくるのですが、このような私の態度は、認知症を患っている親にとって非常に大事な姿勢です。
なぜなら、認知症は脳の疾患であって、心の病ではない、その事実に明確に気づくのです。
委縮
高齢になれば、誰もが身体が小さくなり、若かったころの肉体の面影は消えていきます。
10年前の身体の状態に戻れ、と言っても無理でしょう。
老いは、不可逆性です。
一方で、脳を語るとき、脳科学者なる眉唾物の人物がまことしやかに、全てを知っているかのように、脳について語ります。
脳が最も権威的であって、他の身体とは別物のように取り上げます。
脳で考え、脳が身体を管理して、脳により人生が作られるかのような言動を見受けます。
しかしながら、ハッキリと申し上げますが、脳も身体の一部です。
つまり、単なる物質です。
老いて筋肉が落ちるように、脳も委縮します。
委縮すると、何かの拍子で認知症を発症するに過ぎません。
ところが、この時、多くの人が全くと言ってよいほど判っていないのが、心の存在です。
心は、物質ではありません。
心は、物質でないから老いないのです。
しかし、この事実を全くと言ってよいほど、世界中のほとんどの人間が判っていないのです。
判っていないばかりか、物質である身体と物質でない心を分離して観察した経験がゼロなのが、大多数の地球上の人間です。
この理解の上に、認知症を観察すれば、認知症は物質である脳に生じる疾患であって、心は認知症に侵されないと判るのです。
この発見は、本当は凄いことなのです。
なぜならば、現代社会においては、誰もがコミュニケーションを脳で考えた言葉に頼りすぎます。
当ウエブサイトの記事のほとんども、感情は入りますが、脳で考えた日本語をベースにした言葉で書いていきます。
ブログ記事である以上、言葉に頼らざるを得ません。
しかし、本当のコミュニケーションは、心と心を通わせるものです。
この認識は、認知症を患った人とのコミュニケーションにとって、とてつもなく重要で画期的な発見です。
認知症を患ったとしても、心は認知症ではないのだから、人間本来の心を通わせるコミュニケーションをするのが本当の認知症を患った人と接し方であり、そのコミュニケーション実践こそが、真のケアプランの目標となるのです。
しかも、この目標は、介護するキーパーソンの誰にとっても共通するのです。
結果的に、認知症を患った実母の在宅介護では、認知症症状を表面化させない取組に成功するのですが、この具体的な内容については、追々、記事にしていきます。
この記事は、認知症を患った人を介護する人間は、必ず知っていなければいけない情報です。
しかし、知らない人がほとんどではないでしょうか?
なぜなら、現在、認知症ケアでうたわれている、例えば、怒ってはいけないとか、認知症の相手に合わせるなどと言うケアの言動様式は、単なる認知症患者の≪ あしらい方 ≫なのです。
人を馬鹿にするのもいい加減にしろ、と言いたいですね。
ですから、実母の在宅介護では、介護サービスの提供は受けましたが、そのサービスに何か期待を寄せるというのはせず、認知症を患った母との心を交わすコミュニケーションを私が実践するために、どう支援をしてもらうかだけに焦点を合わせて契約しました。