認知症と『言われる』のが辛いです・・・

 親御様が認知症を罹患したとします。

 ご本人は、認知症を患った現実が判らないと思いますか?

 答えは、ノー。

 認知症と診断されて、それがハッキリした時、もっともショックを受けているのは本人です。

 私の母の場合、日常から毅然としていた生活態度で頭脳明晰。

 周囲の信頼も厚かった日々を送っていました。

 それでも、認知症かもしれないと感じた当初、口には出しませんんが、表情にその不安が色濃く出ていました。

 なので、母が認知症かも?、と思った当初、怒りっぽくもなっていきました。

もくじ

認知症患者か、それとも親か。

 親御様が認知症かもしれないと感じた時、もう一人、不安になるのが介護に直面する子です。

 しかし、認知症が不治の病だとされてはいますが、本当にそうなのかどうか。

 医学的な証拠は否定しませんが、自分で確かめてみない限り判らないじゃないですか。

 ステージ・フォーで、ガン末期で、余命宣告を受けていても、奇跡的に回復する話も見受けます。

 ここで、重要なのが、親が認知症と診断されれば、親御様は大ピンチに直面しています。

 この時、子が取る態度は、真っ二つにわかれます。

 一つは、親御様が大ピンチに接しているのに、その介護がメンドクサイと逃げる子。

 もう一つは、『親の介護が大変?バカバカしい。まさに片腹激痛。一番、苦しいのは認知症を患った母親だよ。』と堂々と介護を担える子。

 前者は、親が認知症患者でしか見えない子です。

 後者は、認知症を患っているけれども、大切な親であることに何も変わらない、そう思える子です。

 この両者の差は、次で決まっています。

不治の病を否定する原動力

 認知症が世間一般的に言われているように、不可逆性で不治の病だったとします。

 しかし、前述の後者の立場にある、認知症を患っているけれども、大切な親であることに何も変わらない、そう思える子だけは、それが本当か?、と確かめたくなります。

 なぜなら、その病を救ってあげたいのです。

 2024年10月に、死刑囚として収監されてしまっていた袴田巌さんの無実が確定しました。

 巌さんのお姉様のひで子さんに、無罪を勝ち取るまでのひで子さんのご苦労に、あるインタビュワーがそのご苦労が大変だったのではないか?、と尋ねるシーンを映像で見ました。

 その時、ひで子さんは、次のニュアンスをお答えになっています。

『 苦労など、そのようなものは片腹痛いわ。巌の方が自由もなくはるかに苦労している。 』

 このフレーズは、日本人であれば必ず心しておかなければいけない、というのが私の考えです。

 認知症を患った親の介護も、このフレーズにある心意気とまったく同じ姿勢が必要です。

 介護のある日々は、決して楽ではありませんが、もっとも苦しい思いをしているのは、老いて、病を患って、心身の自由を奪われていく親御様なのです。

 これに気がつけば、子の介護の苦労などというのは、ハッキリ申し上げて、片腹激痛なほど笑ってしまう程度でしかなく、どうにかして親を認知症から救ってあげたい、となるのです。

認知症と『言われる』のが辛いです

 とはいえ、在宅介護の最初から私もこのように思えていたかと言えば、違います。

 認知症を患った母の介護に、右往左往する日々が続きました。

 弱音も出ます。

 でも、ある日、母がiPhoneのSiriに接する日が来た時のことです。

 実は、私の母は、その昔、レガシータイプの携帯電話が普及し始めた時から独自にメールが出来るようになるなど、先進的な性格の持ち主でした。

 スマフォの話をすれば、スワイプ動作をしてみせるなど、時代によくついていってました。

さくら

ねぇ、お母さん。実は、スマフォって、何か質問すると答えてくれるんだよ。例えば、『今の気温』って聞いてみるでしょ?

Siri

外の気温は○○度です。

実母

ホントだ。すごいね。どうなっているの?

さくら

ちっちゃい小人が住んでるんだよ。

実母

うそをおっしゃい。知らないと思って、バカにして。

さくら

ごめん、ごめん。お母さんも何か聞いてごらんよ。

実母

認知症と言われるのが辛いです・・・。

Siri

よくわかりません(当時)・・・。

実母

・・・。

さくら

・・・。

 このやり取りが、私の目を覚ましてくれました。

 この日を境に、私は、絶対に母を認知症患者として接するのをやめました。

 たとえ認知症を患っていたとしても、私にとって、大切な、唯一の親としてしか接しなかったのですが、この心のあり様が、私の在宅介護を悔いのない経験とできた基礎になっていると確信しています。

 差別は、見た目や、その人の置かれた状況で生じます。

 無実なのに死刑囚とされた人。親なのに、子供から認知症患者としてしか扱われない人。友人だったのに、難病患者としてしか付き合ってくれない人。

 挙げればきりがないほど、世界は差別で成り立っています。

 これはダメだと言ってもなくなりませんが、気づいた人は簡単に乗り越えられます。

 心のアーキテクチャに違いは無い、この気づきです。

 人間関係だけに限りません。動物や、虫も、人間も、生命として平等という理解は、心のアーキテクチャが同じだと判れば、当たり前でしかならなくなります。

 親御様の介護は、生命の平等への理解を促し、だからこそ、≪殺さず≫をマスターします。

 戦争はやってはいけませんが、それが無くならないのは、生命がなぜ平等か?、この理解に人類が全く及んでいないためです。

 それをマスターする一歩目が、親御様の在宅介護です。多くの人にチャンスがあるのです。

この記事が気に入ったら
フォローしてね!

よかったらシェアしてね!
  • URLをコピーしました!
もくじ