説明できますか?
なぜ、パートナーもまた、あなたの親御様の在宅介護に協力しなければいけないのかを。
年老いた親御様の在宅介護が必要になると、真っ先に思い起こすのが、ケアマネだとか、デイサービスだとか、外部のヒューマン・リソースによる介護サービス提供です。
そのようなサービス提供を受けるのも重要ですが、それより何百倍も重要なのが、最重要パートナーとの信頼関係の構築です。
しかしながら、その理解がないので、介護離婚などという言葉が流行ります。
お一人で親御様の在宅介護をしなくてはいけない人であっても、きょうだいがいれば、相続で問題も生じますから、対立するパートナーも存在するという視点は絶対に欠かせません。
逆境は二種類ある
人と人との信頼関係はどのように決まるのか?
そこには親子の関係や、きょうだいの関係も含まれます。
血がつながっていようとも、つながっていなくても、信頼関係はピンチや逆境を共に乗越えたもの同士の間に生まれます。
そのピンチや、逆境は、二種類あるのをご存じでしょうか?
本能で対処できる逆境と、理性をフル回転させて対処する逆境です。
まず、本能で対処する逆境は、例えば会社や子育ての逆境に見られます。
一例を挙げましょう。
プロジェクトでローンチを宣伝しているのに、不具合に直面してどう考えてもスケジュールを乗り切れないといった逆境です。
おそらくは、人的リソースを200%ぐらい投下して、徹夜して、間に合わせるかもしれません。
そのような状況下では火事場の底力を合わせていくので、人と人は友情が芽生えたり、信頼関係が生まれます。
そして、逆境を乗越えた時の喜びはひとしおのはずです。
子育てでも、子供が出場するオリンピックの重圧を跳ね返すために、家族全員で応援する風景によく見受けます。
このようなピンチや逆境は、それを乗越えた先に、皆でさらなる期待をしたくなる≪ 生 ≫があります。
では、在宅介護の場合、それを完遂した時に、期待できる≪ 生 ≫がありますか?
答えは、ノーです。
介護した年老いた親御様が待っているのは≪ 死 ≫しかありません。
≪ 死 ≫しかないにもかかわらず、なぜ、パートナーは介護に協力しなくてはいけないのか?
説明できますか?
説明できないとすれば、その壁が、あなたにとって理性をフル回転させなくては乗り越えられない逆境です。
本当の信頼は在宅介護の有無で決まる
成功者は死を認める。
この現実を知り、体験し、死を直視し、自分のものとできているかどうか。
これがパートナーの協力を得るには不可欠です。
かつては、大家族で暮らし、年長者から亡くなっていく現実に直面していたので、≪死≫が身近にありました。
ですから、このようなことはいちいち説明しなくても、親が年を取れば介護するのが当たり前の世の中だったのです。
昔は、寿命も短いので、認知症などという病に罹患する前に天寿を全うしていました。
しかし、現代は寿命は伸び、核家族化がすすみ、≪ 生 ≫だけを謳歌しようと≪ 死 ≫を遠ざけるライフスタイルこそが幸せとしている今日です。
その結果、いざ、年老いた親御様の在宅介護が目の前に突きつけられれば、逃げ出したくなる人間ばかりがはびこる世の中になりました。
私には、たまたまですが、岳父と岳母(家内のご両親)がお元気でした。
私の実母の介護に直面し、家内の協力を得るにあたっては、この介護の実績が岳父、岳母の介護にどれだけ貢献するのかを一緒に考えるところからスタートしました。
すべての介護に共通して、待っているのが≪ 死 ≫しかありません。
しかし、それに至るプロセスにおいて何を学ぶのかが、私と家内にとってマスターしなければいけない最重要テーマになるという共通の目標を掲げました。
いかなるプロセスも、その本質は、日々直面し、乗り越えなければいけない連続する課題です。
家内には、その課題を共に乗越えていく協力を要請し、同意してもらいました。
課題を乗越えていく実績は、岳父、岳母の介護が必要になった際に必ず役に立つ未来を約束しました。
あの約束から10年以上が経過し、三度目となる岳母の介護を終えた今、かつての未来の約束は、想像以上の成果として、私たち二人は手にしています。
その一つを挙げれば、在宅介護の終わりは≪ 死 ≫しかないのを判っていながら、親の≪ 生 ≫を最期まで支える最大限の善処と努力により、理性的な人生を手にした実感と、ゆるぎない信頼関係が生じた実感が、私と家内の間にはあります。
≪ 生 ≫だけを謳歌するのが幸せだとしか知らない人には、この実感が幸せなことだと判る人は少ないのかもしれません。
逃げないことと具体性があること
まず、日々生じる課題については、その課題がどれだけ小さくても決して逃げてはいけません。
そして、その課題について、必ず具体的なソリューションを出さなくてはいけません。
例えば、キッチンの使い方について、実母の在宅介護では、次のようにしました。
新居で、使い勝手もまだ慣れていない状況だったので、母と家内と私が使うとなると、スプーン一つとっても使用と片付けに困ります。
要は、キッチンの運用思想を一つに統一しなければ、何がどこにあるか判らなくなります。
そのため、キッチンの運用や、整理整頓の思想は、家内がもっとも使いやすいやり方でやってもらいます。
一方、母としては、キッチンが使いづらくなりますから、なにかリクエストがあれば、私や、家内に遠慮なく伝えてもらい、私たちもすぐに対応する約束をします。
この時、母は、認知症を患っていますから、わけわからん状態ではないか?、と思われるかもしれません。
しかしながら、この時、私は実母に対して、認知症患者として接していなかった、というのがポイントです。
大切な家族の一員として、キッチン使用に関する現在の課題克服のために、実母にもしっかり参加してもらい、状況を考えてもらい、納得してもらっているのです。
実は、これは非常に重要な取組だと後々に気がつくのですが、そのことは追ってまた記事をアップしたいと思います。
結婚して、子育てしているうちは、楽しい夫婦生活かもしれません。
しかし、そこに親の介護が入ってくると途端に介護離婚となる場合があるようです。
さまざまな要因がありますが、要は『親の介護なんかやりたくない』のです。直面すればわかりますが、それはとてつもない抵抗感を感じるはずです。なぜなら、生命の本能にプログラムされていない行動ファンクション、それが年老いた親御様の在宅介護です。
ですから、我儘に生きてきた人、自分さえよければ良いと思って生きてきた人には、絶対に乗越えれれない状況が在宅介護なのです。
理性とは何か?この記事でも上述にリンクを貼っていますが、理性が判っていないと在宅介護をいとも簡単にハンドリングできないのです。
理性を培っている夫婦生活かどうか。在宅介護は、親御様が精一杯に生きて最期を迎えて諭してくれる≪ 死 ≫の学び、それ至るプロセスで生じる課題を乗越えながら理性を培う絶好の機会です。
最後に、きょうだいが介護から逃げて、お一人で介護しなければいけない状況でも悲観する必要は全くないのも、同じ理由です。ご自分だけが理性を学ばせてもらった無形の財産を十二分に受け取ってください。