マインドフルネスを知る
実母を亡くしてからというもの、大切な人の死を受け入れられなった私も、お釈迦様の教え、仏教を学びを始め、立ち直っていきます。
実母の死去からコロナ感染症が流行する前までの頃です。
そもそも、信じなくちゃいけない宗教って何?
神様がいるなら、根拠を示してよ。
信じないと救われないって、条件つけるわけ?
といった感じで、私は宗教が嫌いです。
しかし、仏教は違いました。
なので、信じる必要がありません。
簡単な例を挙げてみればよく判ります。
『 地球は丸い。 』
これ、信じる必要はないですよね。
当たり前の話です。
しかし、世にある宗教と呼ばれる教えは、根拠や証拠がないので、信じることを求められます。
宗教に限らず、信じなきゃいけない対象は、本当か、嘘か、証明できないものばかりです。
ごく身近な一例を挙げましょう。
プロポーズで「君を必ず幸せにするよ。」なんて言葉を信じたばっかりに苦労した挙句、離婚したなんて話は枚挙に暇がないですよね。
ちょっと考えればわかりそうなものですが、たとえ夫婦であっても別人格。
お互いに慈しみ、最大限の協力を惜しまなくても、自分の幸せは自分で掴むもの。
それが本当に判っていれば、「君を必ず幸せにするよ。」なんていうフレーズを使うほうも、信じるほうも、ちょっと立ち止まったほうが無難かもしれません。
さて、話を元に戻して、信じるのではなく、自ら学び、実践して、確かめる。
サイエンスと同じアプローチなのが、仏教だと知るに至ったわけです。
とはいえ、すでに日本で宗派としてある仏教とは違います。
私が学んでいるのは、テーラワーダ仏教。
いまでこそ、メジャーになりつつありますが、私がテーラワーダ仏教を知ったのは、ミレニアムを少し過ぎた頃に遡ります。
それが、マインドフルネス。
この言葉は、すでに十二分に市民権を得ていますね。
でも、マインドフルネスの源流が、ヴィパッサナー瞑想にあるのはご存じでしょうか?
このヴィパッサナー瞑想こそ、テーラワーダ仏教が伝える実践的プラクティスだと、私は理解して今日に至っています。
死を本気で学び、認める
実母の死を認められなかった私ですが、テーラワーダ仏教に出会い、ヴィパッサナー瞑想の実践的なプラクティスを始めるにあたって、死を認めることが如何に重要であるか。
まず、それを徹底的に学びます。
例えば、次のフレーズを学びます。
人生を客観的に表した、そのものズバリなフレーズです。
でも、かつての私は、不確実な生だけを思い通りにしようと、そればかりに注力していました。
確実に訪れる死のことなど、遠い未来の他人事でした。
みなさんは、いかがですか?
しかし、死が確実ならどうでしょうか。
誰もが例外なく、明日、亡くなる可能性がある。
もし、このことが如実に理解できるならば、今日という日を決して無駄にはできない。
これが今に集中力を抜群に発揮せしめる心のあり様だ、と学びます。
もちろん、私はまだまだですが、でも、死を認められるようになるからこそ、初めて、今を生きるを知ります。
逆に言えば、死を忌み嫌い遠ざけていては、今を生きるなど無理な話です。
死を認めるから親御様の介護は上手くいく
では、なぜ、死を認めると、親御様の介護が上手くいくのか?
答えはシンプルです。
見も蓋もない言い方をして、申し訳ないのですが、在宅介護は、親御様の死で終わります。
つまり、親は死に向かう姿勢を、介護する子供に示してくれます。
当然、一日も長く、一緒に有意義な時間を過ごしたい、そんな気持ちで親には接して介護を頑張ります。
でも、同時に、必ず亡くなるのであれば、今をどう生きるのか。
これが問われていることも肝に銘じておかなければいけません。
死を忌み嫌い、遠ざけていては、この命題に対しての取り組みを親子で出来なくなってしまいます。
それは、実にもったいない話。
ですから、決して死をタブー視しない。
タブー視しないからこそ、今、この瞬間も介護を、親御様を大事に出来る。
これが親御様の介護を最高に成功させる秘訣、というのが私の見解です。
スマートフォンのアプリにも、マインドフルネスという言葉が使われるようになり、広く知れ渡ったのは良いことではないかなと思います。
でも、その言葉の指し示す中身は、とてつもなく深淵です。
なぜなら、その源流は、ヴィパッサナー瞑想、つまり煩悩に汚れた心の状態を確実に浄化し、実践者を解脱に導く教えとあります。
在宅介護の最期は、親御様が子に死を教えます。
実母の死は、マインドフルネスを実践するきっかけとなり、生きるを詳らかにしていきました。
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