コミュニケーションは、相手が居て成り立ちます。当たり前ですね。
では、この当たり前に対してどの程度の深みがあるでしょうか?問題はここです。
その深みは、相手への尊敬と興味を持つのが条件です。これも当たり前だと思うかもしれません。
しかし、その尊敬と興味をもって、ご自身の年老いた親御様に接しているでしょうか?
その親御様が認知症を患ったり、さまざまな病を患ったとしても変わらずに尊敬の念と興味をもってコミュニケーションしているでしょうか?
コミュニケーションは自分本位
自分の夢、期待、希望、願望を叶えたい。
そう思う時、人はコミュニケーションを開始します。
大それた夢で無くても、少しおなかが空いただけでも、その希望を叶えるために言葉が出るはずです。
一度、一日の中で発する言葉、フレーズの数々が、自分本位ではないものを精査してみてください。
ほとんど無いはずです。
言葉とフレーズを相手を活かすために使ってみる
年齢を重ねるほど、人とのコミュニケーション機会は失っていきます。
話し相手が居ない、という状態です。
もちろん、地域のコミュニティが発達していれば、活発なところもあるでしょう。
ところが東京のような都会のマンション等で一人暮らしとなると話は別です。
病気を患っていれば、億劫になったり、人づきあいに煩わしさを感じる人もいらっしゃるでしょう。
ただ、年老いた親御様と子による在宅介護のチャンスがあるなら、大いに実践する価値のある取り組みがあります。
それは、言葉で人を活かす。
施設等の介護の現場でも、笑顔でとか、目線を合わせてとか、決して怒らないでなど、利用する長寿の方々との接し方についてマニュアル的というか、ノウハウ的なものがあります。
でも、どうでしょうか?
利用する長寿の方々への尊敬と興味はありますか?
あるとすれば、どの程度、お持ちですか?
仮に持っているとして、ご自身への親御様への尊敬や興味と比較して、深いものですか?
現実的には、ご自分の親御様への尊敬と興味以上のモノは持てないはずです。
もちろん、プロフェッショナルな仕事や作業としての介護はあるでしょう。
だからといって、相性もあったり、仕事の範疇による制限もありますから、尊敬や興味といったところは深まっていきません。
しかし、ご自身の年老いた親御様の在宅介護は違います。
その人が親をやってくれたから、自分が存在している。
自分のルーツ(根源)が眠っている、それが親の存在です。
その発掘が、親御様の存在をより価値あるものへと導きます。
塗り絵や、ドリルが脳を活性化するわけではありません。

これで認知症にならなかったり、治るのであれば、認知症はこれほど問題になりません。
脳を活性化するのではなく、存在をより活き活きとさせなければ意味が無いのです。
本当に年老いた親御様の存在をより活き活きとしたものとするためには、介護する子は、言葉やフレーズをそのために使っていきます。
昔の記憶が鮮明な理由、ご存じですか?
在宅介護は、重荷ではなく、チャンスしかありません。

認知症を患うと、確かに日付がわからなくなるといった短期記憶は失いますが、昔の記憶は鮮明です。
その理由は、この記事にまとめているので興味があれば、オススメです。

介護するの子の立場の興味に沿って、思う存分、その記憶を引き出してみて欲しいのです。
活き活きと語ってくれるはずです。
例えば、介護するあなたが生まれた当初、親御様の喜びはどれ程だったことでしょうか。
そして、その喜びは、親御様の心に今もなお消えていないはずです。
このことから明確に判るのは、親はいつまでも子を愛しているなどといった低俗的な話ではありません。
心は歳をとらない。
年老いても親の心は、あなたを産んだ時から、衰えることなく何も変わらない活き活きとした親御様のままである現実を発見できます。
そして、介護する子の立場でしかできない取組です。
心は歳をとらない。
一方で、肉体は衰えていきます。つまり、年齢とは肉体を指しているだけの単なる数値でしかありません。そして、肉体としての機能を果たせなくなります。
これが、多くの人が恐れて、避けたいと思っているいわゆる死です。
その避けたい現実は避けられませんが、しかし、心は歳をとらないのですから、肉体の死を迎えたところで、恐れる必要はありません。
この現実をより深く看破できているならば、在宅介護で最期を迎えていく親御様を安らかに見送ってあげられます。