実際に介護サービスの提供を受けるにあたり、必ず肝に銘じておかなければいけないことがあります。
それは、ひとりの高齢者が介護サービスを受ける上で、相当額の支援が国から支払われている現実です。
このような国は、世界を見渡してみても、非常に少ないのです。
昨今、持続可能な社会などと上辺だけのキャッチコピーにもならないフレーズがはびこりますが、本当の介護サービスを、本当にこれからも残していきたいのであれば、在宅介護は公(おおやけ)の仕事である自覚はマストです。
タダじゃないんだよ
年老いた親御様の在宅介護の話を耳にするにあたって、もっとも軽蔑するのが、自分の親をろくに面倒も看ずに特養等の施設に追いやろうとする行為です。
他にも、ひとりの子に年老いた親御様の在宅介護の全てを押し付けて、介護から逃げる他のきょうだいの存在も軽蔑に値します。
なぜなら、その年老いた親御様の在宅介護で、介護サービスの支援を受ける時、そこには日本国民の相互扶助の思想のもとに国から経済的支援が入るのです。
また、介護サービスを受けず、親御様が要介護4、もしくは要介護5(自治体によって要件は異なるところもあるようなので、詳細は各自で調べてください)で在宅で介護をされている状況であれば、家族介護慰労金も支給されます。
見も知らずの、顔も名前も知らない誰かの支援が、ご自身の親御様の介護を支えています。
つまり、在宅介護は公(おおやけ)の行為です。
公(おおやけ)の行為とは何か?
JR東日本は、民間企業ですが、公共交通機関を提供しています。
公共の名の通り、公(おおやけ)の仕事だからこそ、ダイヤグラムの正確さは世界一です。
本来、日本は、民間企業であっても、提供するプロダクツや、サービスは公に資するものだからこそ、ハイ・クオリティを追求してきました。
しかし、昨今は公(おおやけ)に資する姿勢が、企業も、人も、崩れています。
例えば、公共の電波を使ったマスコミの放送は、企業名を記述することすら憚りますが、特筆すべき典型例です。
また、電車のホームを歩いてみれば、スマフォ画面から目を離さずに歩行を止めない人間に必ず出会います。
いずれも、公(おおやけ)を無視する行為です。
昨今の年老いた親御様の在宅介護の状況も同様です。
そこのあなた、年老いた親の介護なんて、やってられないんですよね!?
だったら、産んでもらって、育ててもらわなければよかったはずです。
自分の親の面倒も看れない輩を楽させるために、日本国民は介護保険料を毎月支払ってるわけではありません。
キチンと自分の親御様の面倒を看て欲しいという思いから、介護保険料を負担しています。
なぜ、このようなことをやるのか、判りますか?
真剣にやるほど幸せは約束されます
なぜ、どこのだれとも判らない年老いた親御様の支援するために、そのご家庭の在宅介護に対して、会ったことも無い日本国民全員が介護保険料を負担しているのか?
それは、年老いた親御様の在宅介護をキチンとやり遂げて、その結果、介護の責任を果たしたあなたに幸せになってもらいたいからです。
お年老いた親御様の在宅介護をやれば、その負担から不幸になるとでも思っているのが世の中の風潮かもしれませんね。
だから、公共の電波を使っているにもかかわらず、マスコミの放送は地に落ちているのです。
しかし、世の中の風潮によるその思い込みは、大間違いです。
なぜなら、年老いた親御様の在宅介護は、道徳です。
道徳とは、人を幸せに導く指針です。
当然、年老いた親御様の在宅介護の責任をしっかりと果たしたのちは、幸せをつかむチャンスがきます。
もちろん、それを見逃す人間もいるので、あなたにはそうなってほしくはないですね。
かつて、日本では修身という授業がありましたが、それが道徳と名を変え、今ではもっとも軽んじられる授業になり、道徳とは何かを教えられる教師など、まずお目にかかれないでしょう。
道徳の基礎は、死を直視するところから始まります。
なぜなら、誰もが例外なく、死に向って生きている。
生きるゴールは、死なのですから、今日に有終の美を飾るにはどうすれば良いのかへの問いが、今を生きる姿になっていないといけません。
それを判らせるために、年老いた親御様は、それこそ命をかけて、寿命を迎えて遺す子に死を教えます。
つまり、道徳の基礎です。
これを理解する者は、社会で必要とされる人材です。
道徳なき国家、政治、企業、家庭の行く末は、滅亡しかありません。
ですから、年老いた親御様の在宅介護は公(おおやけ)の仕事なのです。
学費の無償化で喜んでいるご家庭もあるかと思いますが、子供がタダで学校にいくためには、誰かが金銭を負担しています。
ですから、育て方が悪ければ、社会から厳しい指摘を受けなければいけません。しかし、一言でも他人が他人の子供に注意しようものなら逆ギレされる世の中です。それが嫌なら、最低でも学費をキチンと支払うのがあるべき姿ですが、もやは言葉は通じないでしょう。
かつては、成績がトップか、それに準じる学力でなければ、学費免除にはなりません。当然、優秀な子であるほど、国や社会への貢献が目覚ましいからこそ、学費免除にする意義があったのです。
もっとも、今は、日本の國體(こくたい)が崩れ去っていますから、いずれそのしっぺ返しを誰もが喰らうでしょう。