絶望の学び方って知っていますか?
それは、絶望に瀕するしかありません。
誰もが避けたい現実のはずです。
しかし、絶望を知らなければ、本当のリジリエンスは身につきません。
リジリエンスとは、復活への強靭さです。
2024年に能登半島は、地震と洪水に襲われました。度重なる被災になお生きる辛さは、尋常じゃないほどだとお察しします。
この世界で生きる現実の厳しさに、誰一人として例外はありません。
ただ、平和ボケして他人事にしか感じられない人間も今の時代は多いようです。
ここで、よく考えてみていただきたいのです。
絶望を知る人と、知らない人。
組織のリーダーやトップに必要な素養は、どちらだと思いますか?
自然の本当の姿
馬鹿な人間ほど、森や海をみて癒されるなどと宣(のたま)います。
紀元前より、人間の生きる営みは、自然の脅威を如何に逃れるかに注力されてきました。
アーティフィシャルな世界を創り上げ、自然の脅威に立ち向かえる力を培ってきた今日ですが、幻想の域を出ません。
東京でも、ひとたび直下型の地震が生じれば、2024年の能登災害どころではなくなるでしょう。
年老いた親御様の在宅介護は、自然の脅威をよく理解し、住まうところから考えなければいけないのですが、それに気づいている人は多くありません。
少なくとも、3.11を経験していれば、電力供給がおぼつかなくなる東京で、さらには階段の上り下りが困難になる高層階のマンションで在宅介護ができるとは思えません。
絶望は、見ようと思えばよく見えますが、見ないようにしているのが日常のはずです。
しかし、在宅介護は、見ないようしている避けたい現実を強制的に見せてくれる日々でもあるのです。
外界の自然の脅威の他にも、老いと病という肉体にあらわれる自然的な現象も、日々、拡大しながら死を突きつけてきます。
病気の本当の姿
先天的に病気を抱えて生まれたり、生活している間に不自由さを抱えるのは、誰にでも生じます。
あれだけ元気だったのに、ある日、パーキンソンが判明する。
他にも、認知症が判明する、癌が見つかる、心筋梗塞になる・・・、さまざまです。
身体は、あらゆる病がいつでも表面化する準備が進みます。
年老いた親御様の介護をすると、患った病の進行に歯止めがかからない現実に直面します。
培ってきた仕事の実績、稼いできた金銭、大事にしてきた人脈等々、あらゆる持てる力をすべて注ぎ切っても、とまらなし、とめられないのです。
どれだけ、自分の命を差し出すからと願ったところで、変われることもできないのです。
自然災害で、目の前で濁流にのみ込まれ大切な人を亡くされたご経験のある方もいらっしゃることと思います。
いくら自らの命を引き換えに差し出そうとも、手を差し伸べようとも、決して届かず救えない現実に直面します。
そして、決して時間は巻き戻せないと初めて知ります。
絶対に超えられないと知るには絶対を超えようとしなければ判らない
絶望をリジリエンスに変えられる機会は、残されている人に与えられます。
つまり、生きています。
生きているから、絶望を感じられます。
自然の本当の姿を目の当たりにし、病気の本当の姿を目の当たりにしたとき、その絶望は言葉にできないはずです。
ここまで経験して初めて、絶対に超えられない壁を知ります。
時間は、巻き戻せないと知ります。
一度きりのこの人生の時間は、とてつもなく短いと知ります。
明日に自らの死がある今日しかないと知ります。
なぜ、第2次世界大戦後、日本中が絶望に瀕したところから、これだけの発展を遂げたのか。
当時、生き残った人たちの中から、絶望をリジリエンスに変えたリーダー達がいらっしゃいました。
戦後の産業をリードした、誰もが知る先達の経営者たちにその姿をみることができます。
彼らは、絶望をよく知っているからこそ、戦火に散った家族、そして仲間や同胞の遺志を継ぎ、リジリエンスに変え、今を生きる私たちにこの世界を残してくれました。
これが、日本の本当の強さです。
絶望は、戦争で知るわけでありません。
仲間や同胞、愛する人との永遠の別れが絶望を教えます。
絶望は、生きている私たちのすぐ傍にあります。
そして、年老いた親御様の在宅介護は、親御様の死で終わりますが、生きて欲しいと真剣に願い、介護をして残された人には、まちがいなく絶望が与えられます。
それは、リジリエンスを発揮する資格です。
本能に駆られた薄っぺらい人間には、どう生きるかにしか焦点が当たりません。
結果として、生き残るための仕事しかできません。
ご自分も良し、他人も良し、全体も良し、その思考と振る舞いが組織を活性化するのですが、ご自分の置かれた仕事や組織の環境はどうですか?
もし、組織や企業が衰退しているのであれば、誰もが生き残るための仕事しかしていないはずです。
これが判れば、在宅介護の経験が如何に大切か。
その理解が深まるはずです。